白井晟一と雲伴居

昭和を代表する建築家のひとりに白井晟一という人がいた。白井晟一は戦後日本の成長期に活躍した建築家で、大量消費社会や行き過ぎた合理性あるいは精神性の喪失などに対して鋭い問題意識を持っていた。白井の建築が良いとか悪いとか生意気なことをいうのではなく、社会に対する反逆性というのか、世の不正に対抗する姿勢に僕は惹かれるのだ。世の流れに逆らって生きた白井晟一は、建築家であると同時に現代社会から吹き出る闇を見据える文明批評家でもあった。

白井晟一(1905〜1983)
白井晟一(1905〜1983)

白井の発表する建築やエッセーは高度成長期でうわついた日本を震撼させたといわれてる。しかしながら、社会に迎合しない白井の姿勢は「孤高の建築家」「異端の建築家」などというレッテルを貼られる結果となった。他者にレッテルを貼ることなど、白井にとっては最も嫌うべきことだったと思われるが、残念ながら自らがその対象となってしまったのだ。建築史家の藤森照信は、「白井晟一は尊敬はされるが、理解はされにくい人だった。」と書いている。良くも悪くも稀有な建築家だった。

雲伴居アプローチ
雲伴居アプローチ

京都の洛西、嵯峨野に「雲伴居」と名付けられた住宅が残っている。京都生まれの白井は故郷に建築を作ることが一つの望みだったといわれているが、1983年の初冬、落成を見ることなくこの地で斃れた。雲伴居は自らの書堂であったとも伝えられている。

書家としても知られた白井晟一は比較的始めに「無伴」という書を残している。伴うものは無し。世の中から孤立していたことを自覚していたのだろう。けれども、最後の建築が「雲伴」であったのだから奇妙な感慨を禁じ得ない。

友人であった建築家の前川國男は、白井の死に際して小冊子『風声 京洛便り』に追悼文を書き記し、次のように結んだ。

「白井さんの訃報は、花を散す一陣の強風のように私の胸中を吹きぬけた。日本の闇を見据える同行者は、もはやいない。」

img_0321
雲伴居
Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on Tumblr