サン・マルコ美術館のフラ・アンジェリコ

今から、たっぷりと20年以上前の夏、美術大学の学生だった僕は、イタリアのフィレンツェに旅に出た。貧乏旅行で美術館すら、なかなか入りづらかったけれども、ここはルネサンス華やかな都。ミケランジェロの「ダビデ」だけは見たいとアカデミア美術館に向かったのだった。

しかし、世紀の名作とあって長蛇の列が出来ている。おまけに灼熱地獄だったのだから、思わずその場から退避してしまった。しかし、たまたま近くにある別の美術館の前を通った時に、これは何だ、と手にしたガイドブックを見ると、修道院を改修して美術館として公開していると書いてある。中をのぞくと、イタリアの激しい陽光とは反対に、薄暗くて奥行きのある空間が潜んでいるように見えた。人も少ないし、入ってみることにしたのだが、ここがフラ・アンジェリコの名作「受胎告知」のあるサン・マルコ美術館だったとは、まだ知らなかった。

ひんやりとした暗い空間を通り、回廊に囲まれた中庭に出ると、眩いばかりの太陽と回廊の織りなす、とても陰影が美しい空間に出会えた。さらに2階に向かって階段を上がると、静謐な修道院の空間に「受胎告知」が置かれていたのだった。美術の教科書に出てるあれだ、と思わず心の中がざわついた。

フラ・アンジェリコはルネサンス初期の修道士、画家でサン・マルコ修道院で慎ましやかな画僧生活を送ったといわれている。本名はグイド・ディ・ピエトロといい、後世の人がフラ・アンジェリコと呼んだ。その意味は「天使のごとき修道士」である。ジョルジュ・ヴァザーリの「画家列伝」によれば、フラ・アンジェリコは謙虚で温和で敬虔な聖者であると伝えられている。

ダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ・サンティに代表される盛期ルネサンスが「大輪の華」だとすれば、フラ・アンジェリコの生きた初期ルネサンスは「小さな蕾」に過ぎない。だが、花咲く前のそれが良い。迫ってくるような大作には無い安心感がある、といえば良いのか分からないが、絵の中にいる大天使ガブリエルや聖母マリアの表情が素朴で好ましいし、赤らめた頬がなんとも微笑ましい。それでいて建築図面のようなカッチリとした厳しさもある。この清楚な絵の前で、ただ時間が静かに流れていった。

海外旅行など、そう何回も行けるものでは無いが、2回目のイタリア旅行の際も、やはりサン・マルコ美術館に向かってしまった。(ちなみにマドリッドのプラド美術館にも、フラ・アンジェリコによる別の「受胎告知」がある。これも観に行ったのだった。)

3回目のイタリア旅行があるのかどうか分からない。しかし、もしあるとすれば、フラ・アンジェリコに誘われて、またしてもフィレンツェに行ってしまうのだろう。

dscf5929
フラ・アンジェリコ「受胎告知」
Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Share on Tumblr